何のために生きるのか
お盆ですね。
夏になるとスイカや夏野菜を食べ、窓辺から風鈴の音色、縁側や庭でタライに水を張り足を浸して涼んでみたり、すだれの隙間から漏れる太陽の日射しが美しく感じます。
夕方には打ち水を行い、アスファルトに蒸発する独特の打ち水の香りが立ち上ります。
僕達はとても情緒豊かな物事をごくごく普通のように行っています。
アトリエには外国出身の方も何名かおられ、日本人のその時々を感じ楽しもうとする精神は素晴らしいと仰ってくださいます。
当事者である日本人にとってみれば、そうなんだという感じで逆に民族感を再認識します。
夏の大きなイベントといえばお祭りや花火、盆踊りではないでしょうか。
盆踊りは踊られましたか?浴衣を着て踊る男女の姿はとても美しいです。
盆踊りはお盆に招き入れたご先祖の霊をもてなしお送りする行事です。今では夏祭りの踊りのイベントとしての印象が強いですが、本来は宗教的な儀式として存在しています。
お盆にお墓参りをし、仏壇にはお供えをしお盆の間ろうそくを灯します。そして盆踊りで亡くなった霊やご先祖様を供養しお送りするという一連の行事が盆にあります。
お盆の儀式はとても神聖で尊く思います。
お墓参りなどで先祖に感謝を伝えた時に、僕はなぜ生まれてきたのかを考える時があります。何の為に存在しているのかと。
資本主義経済の日本では、生産性が高く能力が高い人が優れているとされます。どんな職種であっても。
しかしこの世に生まれた誰もが競って勝ち取り優位に立ちたいと思っている人ばかりではなく、尊重し合う世界の中で生きようとする方もいます。
そんな他人を尊重し摩擦のない世界で生きようとする人を、自己の利益の為に利用する人もいます。
そもそも今のこの世の中では他人への優しさや思いやりの高さが直接、給料などに繋がるわけではありません。
その優しさや思いやりを他人の望む形に変えてはじめて評価される世界です。
ですがそんな高度な事を誰もが行えるわけではありません。近くにいる人の笑顔を見たいと思って行動している人もいます。
本来全ての仕事は誰かの為に存在しています。
仕事は誰かのたいへんを担って誰かを助けています。どんな仕事もスタートは他者貢献から始まっています。
ですが下品で俗世的な生き方だけを成功者として祭り上げて来たメディアの影響は大きいです。実際、修道者の生き方と高級なタワマン生活の方の生き方は全くの別ベクトルで価値観が違います。優劣という価値判断ではなく、なぜ高価な物を身に纏いたいのか、なぜ立派な屋敷に住みたいのか、欲求の先の答えを探してみる事で自分が生きるテーゼを少し理解できるかもしれません。
知らず知らず俗世的な欲求に傾倒していく事で、本当は必要なかったプライドや妬みが生まれ苦しんでいるのかもしれません。
最悪な場合、心が荒み他人を利用してでも自己利益を求めるようになるのかもしれません。
本当はもっと自由に生きていられたのかもしれないのに。
ですがそれはその方が選択された人生です。
人はカルマを背負って生きていきます。
誰かを傷つければそのカルマを背負い、誰かを幸せにできればそのカルマを背負います。
自分が何かを成し遂げられる存在だと信じた青春時代から社会に出て波に揉まれる中で、自分は何者でもない事を実感していきます。多分ほとんどの人がそういった感覚を持ちながら年齢を重ねられるのかもしれません。
ですが青春時代に描いた夢は遠のいたかもしれませんが、それとは別に年齢を重ねる程に周りにある幸福をたくさん学んでいけます。
当たり前である事こそ幸福であるという事。
僕は過去誤って行ってしまったカルマを背負い懺悔して生きています。
悔改めようと自分を見つめ他人を見ていく中で、僕が美しく輝くように感じる方は他者を重んじ、平和な世界に生きようとしている人です。
今の資本主義社会では評価されないかもしれません。
ですが、他者を重んじる優しさはどんな高価な物よりも貴重で純粋で尊いです。
何の為に生きているのか。
僕の自由の為に。
あなたの自由の為に。
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