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感情をなくしていく





赤ちゃんは泣いて笑って気持ちを感情のままに表現します。

コントロールのまだまだ効かない幼い子も、感情を露わに思いのままに表現をします。

自分の感情を表す事に躊躇なく、戸惑いなく行えます。


やがて中学生になる頃には論理性や合理性を養い、感情を表す事よりも論理的である事の方が良い結果を導きやすいという事を学んでいきます。

人はみんな自分という自我が少しづつ成長し、自分という人間が何なのかを学んでいきます。



何が好きで、何が苦手で、何を信じて、何を表現しようとしているのか。



大人になり社会に出て、いろんな人に出会い様々な状況で仕事をこなしていくと、この論理性や合理性が何よりも大切だと実感します。

自分が行いたいと思う方法よりも、どのようにすればこのプロジェクトが成功するのか、携わる誰もが納得のいく結果が得られるのか。クライアントの希望が第一で、そして会社の利益を大切にします。それが仕事です。そこに個人の自我はあまり必要ありません。心なく感情のないままに仕事をこなすという事ではなく、個人の意識(自我)を強く表すと会社として、仕事として、プロジェクトとして纏まりにくくなります。どこまで自分を表現するのか、「これ以上は一定の領域を越えて行く」そう感じるラインを定める事はまた難しいところでもあります。


でもそれは仕事だけではなく、遠い知人であっても、近い友人であっても、そして家族であっても、変わらないのではないでしょうか。


友人だから思った事を心のままに話すわけではないですし、家族だから感情のままに自分を表現しません。例え家族であっても尊重し合い節度ある距離を保つ事が大人だからです。例え最も近い夫婦であっても何もかもを奔放に表現し合う事はしません。


自分と同じような見た目の人間が周りにはたくさんいますが、自分の辿った歴史は他人と共有できません。

どんなに想像し、空想しても、経験してきた事そのものを共有する事はできません。

他人とは言語やボディランゲージを通してコミュニケーションを行える、自分とは全く違う人なのです。


だからこそ物事や言葉を選び、他人との時間を大切に過ごします。


この物事は相手にとって心地よいのだろうか、この表現は相手にとって適切なのだろうかと。

自分本位でいる事がどれだけ稚拙なのかを学ぶことも、人が成長できる要因です。



少し話が逸れますが、民主主義を例にお話しいたします。


民主主義とは民衆が中心となった主義で、専制・独裁といった特定の人物や団体が、権力や支配力を持つ主義ではない事をさします。つまり、全体の総意を纏め出来る限りたくさんの人が納得できる方法を見いだそうとする主義が民主主義です。


この、より多くの多数を尊重する為には、自分がその多数と意見が異なっていても変化していかなければならないという事実も含んでいます。

総意というのはできる限り多くの人が納得のできる、論理的で合理的な意思を受け入れ、個人的な自我を捨てて行く事、もしくは変化して行く事でもあります。

ここでもわかるように、論理的である事が如何に有益で合理的であるのかがわかります。



しかし、除外された少数派はどうでしょうか。総意として取り入れられなかった少数はどうなのるでしょうか。



誰もが抑制力の高い人間ではなく、また物事によっては譲れない感情がフラストレーションとして蓄積される場合もあります。そういった総意に対してのフラストレーションが大きくなれば、アナキズム反体制運動として現れたりもします。


自分を表す事ができる場所を見出さなければ人は個人しての尊厳を守れないと感じるからです。




話を戻します。


自分(感情)を抑制し、対峙する相手の気持ちを優先し、そして自分の納得する位置を探して他人と過ごします。

それが論理的で合理的である事に間違いはありません。



しかし、人して物事の分別をつけ自分を抑制できても、どうしても譲れない物事があってそれを表現したいという欲求も現れます。

その表現を感情のままに言葉を使うのではなく、刹那的に行動するのではなく、思いを芸術を使い表わしている人達がいます。

自分の思いを芸術を使い表現する事で自分を解放しています。

求めていた世界を表せる世界、誰も傷つけずに自分を表現できる世界。


それが芸術です。


そして誰もが踏み入ることのできる表現の世界でもあります。

感情のままに言葉で表すのではなく、欲求のままに刹那的に行動するのではなく、芸術で表してみませんか。


楽しく、切なく、美しい世界がそこには無限に広がっています。

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