うさぎとかめ
「うさぎとかめ」
”ある森で、足の速さを自慢するうさぎが、歩みの遅いかめをからかいました。怒ったかめは「それなら山のてっぺんまで競争しよう」と申し出ます。
スタートするとうさぎはあっという間に走り去り、かめを大きく引き離しました。余裕を持ったうさぎは「かめはずっと後ろだから、少し休もう」と木の陰で居眠りを始めてしまいます。一方、かめは立ち止まることなく一歩一歩着実に歩き続け、ぐっすり眠っているうさぎを追い抜いて先にゴールしました。”
イソップ著
「うさぎとかめ」の話に込めれた作者の意図は、みなさんご存知の「慢心し見誤らないこと」「継続力が結果を生むこと」を説いた寓話です。
うさぎの言動から読み取ると、どんなに安易だと思える物事でも慢心すれば失敗すると説き、亀の言動から読み取ると、勝負にもならない程の力の差があっても、時間を必要とする勝負には勝敗があると読み解けます。
つまりは、地道に継続出来る力の意味を本当に理解できていますか?というテーマと、そして本当に自分という存在を理解していますか?という2つのテーマを持った、哲学的な問いかけを持った作品です。
そしてもう少し深淵を探ると、誰と争うのかという視点から、”あなたはどのように生きますか?生きていきますか?”という大きなテーゼをこの物語は含んでいると思います。
・・・僕を含め、現代人はドーパミンの奴隷です。
ひっきりなしに新しい情報が手に持ったスマホに現れ脳を刺激します。
本当に必要なのかを考える間も与えない程に、毎日毎分、新しい情報が現れます。
調べる行為としての情報収集ではなく、手に持ったスマホに何となく触れ何となくネットに繋げば、刺激的な情報が脳に快楽を与えます。
世界のニュースがひっきりなしに流れ、トレンドが生まれたり作られ、それらを自分に必要な事のように受け取り、ひどい場合情報弱者であるかのような不安感を覚えてしまう方もおられます。
敏感な人ほど誰がどこで何を体験し何を得て表したのか、本当は自分に必要のない事なのですが、情報を得ていないと損をした気分になる方すらおられるようです。
また一方で知らない事がまるで劣っているかのような価値観が浸透している事、いわゆるマウンティング行為が一般化してしまったことで、自分にとっての必要性とは関係のないところの情報までもを所得してしまっています。
つまり情報優位性という意味を、必要性という最低ラインの判断基準を外れて、大雑多でもいかに情報を所有しているのかという事に価値を持つ方もおられます。
情報発信をする側に立った時も、バズる為・・・目立とうとする意識が強いと、本来表したかった事を後ろに隠してしまうのではと思います。
目立つ為には地味でありきたりな表現よりも刺激的で過激な方が目立つからです。ですがそういった表現では、人の心を掴むことはできないと僕は思います。正攻法ではない奇策な物事は目立ちますが真意を読み取る力はみんな備わっています。もうそんな奇策な表現や過激な方法で認知を得ようとする物事を人々は避け始めています。
表現者がハイライトしている部分に、どのような意図や目的があるのかを読み取ると、自分にとって必要なのかどうかを判断できます。誰の為の情報なのか、誰の為の物事なのか、それは表現する隅々から感じ取れると思います。
そのほとんどの情報や物事が、今現在の自分にとっては必要のないものだと理解できるはずです。
情報を取捨選択する為には、”自分という存在”をしっかりと認知している事が前提です。
自分を知らないと自分以外との差を認知できません。世界という地図を持つためには、まずは座標の元である自分という位置を把握する認知力が必要です。
知らなければならない情報、必要のない情報、自分に関係のある世界、関係のない世界。
自分という存在を知って情報と接すれば、溢れる情報に右往左往せず、要らぬ焦燥感で要らぬストレスを抱くこともないはずです。
自分という存在を知る為には、スマホに向けていた、外に向けていた目を自分の中に向けなければなりません。
単純な好みから、死生観まで、自分が何に価値を持ち興味を抱くのかをじっくりと自分と対話しなくてはなりません。
みんなやってるから、とりあえず自分も同じように行動する日和見な姿勢では決して自分という存在を理解できません。
アイディンティティーとは他人とは違う識別の連続と、論理だけでは判断できない倫理観や道徳観念を思想を合わせた行動で作られていきます。
自分に目を向けた途端、刹那的に過ぎる世界線は終わり、残酷なまでに愚直な真面目さを必要とし、地に足のついた世界しか映さなくなります。
過去から現在に至る自分を見つめ、そして未来の自分がどのようなものでありたいのかを思考しはじめた時に、霞がかかった世界線から夜が明ける朝焼けのような世界線へと変化し、朧げだった目的も少しづつ明確になってくるのだと思います。
実直に自分を見つめた時には、自分の問題とそれ以外の問題も分けて理解できると思います。
他人の言動はコントロールできませんが、自分の言動はコントロールできます。
自分の意思とは関係なく勝手に体が動くことはありませんし、思いもしない言葉を口走ってしまうこともないはずです。
思考が至らずに起こしてしまった失敗やミスを除いて、人間は本能的な衝動で行動しているのではなく、どう行動し表現するのかをずっと自分で決めてきたはずです。
だからこそ今ある自分の周りに存在する世界は、そう選択して生きてきた連続の世界線です。
どう行動するのかは、どういう未来を望むのかで行動を決定しなくてはいけません。
夕飯は秋刀魚の塩焼きと豆腐と納豆とお味噌汁にしようと考えた時、食材を用意する所から始まり、どのように調理すれば完成するのかを調べ行動しているはずです。
デッサン上手くなりたい。未来の自分はめっちゃデッサンの出来る基礎力の備わった人になりたい。
そう想像したのならば、どのような材料が必要で、どのような修練の先に手に入るのか知り、地道にその行動を継続しなければならないはずです。
寝際の夜にデッサン上手くなりたいなーと想像をして目を覚ませば上手くなっているわけはありません。
想像をしたのならば、その行動が自分に課せられるのかを見極め、至らない自分を変化させていく連続なのだと思います。
全ては行動し継続した地道な積み重ねの上にしか存在しません。
逆にこれは未来をイメージし必要な行動を継続出来れば全てを手に入れられるという事だとも捉えられます。
僕が今一番好きな言葉は”地道”です。
失敗をし方法を模索し、また失敗をし模索し努力を怠らず昨日よりも少し成長した自分を認知し、至らない物事を理解し変化させていく地道な人生を僕は素晴らしいと思っています。
想像してください。
何の節制もせず奔放に好きな食事を取り、運動もせず、怠惰の極みを、貪欲に支配されて生き死んでいきたいと思いますか?
きっとほぼほとんどの人は、成長する事の喜びを知っていて、その中にこそ人間の喜びがあるという事も体験しています。
そしてのその成長はいつか自我を超えて他者へと向かい、敬み愛する慈悲に満ちた者になる道へと進んでいくはずです。
いかに自分が狭い世界線でしか見ていなかったのかを理解した時、我欲が削ぎ落ち、他者の為に行動したいという愛に動かされると思うのです。
ただ僕たちは完成された神や仏ではなく、成長を選んだ人間です。
体もあり整え鍛えていないと安定した行動を継続できないですし、いつでも欲求をコントロールできるわけでもないと思います。
寝不足だと寝たくなるし、疲れた時は甘いスイーツも食べたくなります。
0か100で行動するのではなく、これはいいよねと思える軽い誘惑は時には楽しむべきだと思います。
余白を作って色々なイレギュラーを楽しむべきだし、時に自ら選択せず身を任せて彷徨ってみることも学びを得ます。
自分はどんな人間で、どんな人間になろうとしているのかを知るきっかけは、他人の作用があってこそ大きく動くものでもあります。
ポジティブな刺激は寛容的に受け止め、コントロールすべき地道な作業はただ直向きに実直に進め、そして時には肩の力を抜いて安らぐ。
そんな毎日の先に存在するのが、過去に想像した未来の世界線であればと思います。
地道な世界、そこに嘘はなく、着飾らない裸の自分だけが存在します。
どんな言動も、お天道様は見守っています。
素晴らしい人生を楽しみましょう。
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