top of page
検索

センスと才能

能力や資質を表す時に、センスや才能を用いて話すことを聞いた事があると思います。



「彼は〇〇の才能がある。彼女は〇〇のセンスを備えている。」などの言葉を見聞きした事があると思います。



一般的には才能とは生まれ持って備えた資質を指し、センスとは対象とする物事の理解度の高さや表現方法の巧みさを指します。

才能は生まれ持った先天的なものとされ、逆にセンスは後天的なもので、育った環境や様々な要因で形成されるとしています。但し何が決め手の要因なのかは対象とする物事で複雑さは変化し、様々な因子を含める場合がほとんどで完全に理解する事は不可能だと思います。






では、「あなたはデッサンの才能を備えている」という例えはどういった要因がそう感じさせているのかを考えてみます。


絵画教室に通わずとも、幼くしてデッサン力が既にある程度備わっている方を何かの機会に見た事があると思います。

絵が上手なお子さんに対し、あの子は絵の才能があるんだなと先天的な才能が備わっていると思いやすいですが、僕個人的にはあまりそう思っていません。なぜかと言うとそういったお子さんは元々、物に対する関心が高く幼い時より物の構成を理解しようと務めた結果、観る力を養っていたのではないのかと思っているからです。

幼少期に身体を動かす事に楽しさを感じるお子さんがいれば、絵を描いたり物を作ったりする事に興味を示すお子さんがいます。絵を描いたり物を作るという行為には、まず見て学ぶという事が前提条件です。

この見て学ぶ、見て知りたいと言う知的好奇心は、幼少期に皆さんあった衝動だと思います。なぜなぜ期とか例えられますよね。

つまりはデッサン力が元々備わっていると言われる才能は、見る訓練をデッサンを行う前に多く行なっていたという経験が、他の人よりも表現を優位にさせているのだと僕は考えています。


凄く当たり前のごくごく当然の理論ですが、「見て理解しない限り表すことは出来ない」からです。


見てもいない世界、知ってもいない物事を語ったり表現出来ないのと同じです。

幼少期は物事のほとんどがわからない未知な世界で生きていますので、親に対し「なぜ?」という言葉を常に投げかけます。わからないから知りたいという知的好奇心に満たされている幼少期に、物を見る事に対しても自発的に自問自答を繰り返していれば表現も並行して成長してるのではないかと思うのは自然ではないでしょうか。


デッサンは見る事からスタートします。


モチーフの細かな形を直感的、あるいは論理的に理解します。そして物に対し理解度が高い方は、見えていない部分を想像し補完する事も行えるはずです。

目で理解した解像度の高い像を、次は手を使って紙に表現します。そこで必要になるのが、手の合理的な動かし方や様々な技術的な表現方法です。

字をかける人であれば線を描く事はある程度可能ですし、陰影表現もハッチングや遠近法を使わずとも見たままの表現が可能ですので、見る力が備わっているだけである程度の表現が可能です。


誰もが産まれてすぐ絵を描けるわけでありませんので、ある一定の年齢に達した時に、つまりは絵を描く為の準備、鉛筆を持って紙に描く事が可能になったそれまでの時に、物事に対しての理解度がどれだけ高いかによって表現の差が生まれます。


つまりはデッサン力が備わっているので絵の才能があるという認識は、物を理解しようとする観察力が高いという能力であり才能という生まれ持った資質ではないと僕は考えています。


肉体的な違いを例にとって才能を例える場合、人種の違いによって表されます。


黒人の骨格は白人やアジア人とは違い平均身長が違います。骨格の大きい黒人は必然的に筋肉量も増えます。骨格が大きいという事は後に備えられる筋肉量の総量も大きいという事です。これが才能であって生まれ持った資質です。






では「あなたのデッサンにはセンスがある」という例えはどういった要因がそう感じさせているのかを考えてみます。


例えばモチーフを複数用意してある場合、どのモチーフを選択しどの角度から描くのか、大規模な集合静物のような場合、何処を切り取って描くのかは個人の感覚です。また写生会などで、他の方にはない世界観を持った絵に仕上がっている人もおられます。

そういった違いが生まれるのは、個人によって観念的な感覚の違いがあるからです。その人が元々見て感じている世界観が特徴的だから表現も特徴を持っています。また描き方に独特な表現を使う事で他とは違う世界観を創る方もいます。

そういった曖昧で主観的で数値化出来ない感覚的な美意識の差をセンスという尺度のない言葉で表します。


センスをもう少し掘り下げてみます。


例えばファッションを例にしてセンスが良いという判断の指標は何処にあるのかを考えてみます。

衣服はそれぞれ、必要な環境に合わせた素材や縫製で作られ求められた条件を達成しているはずです。ほとんどの衣服は使用される環境に合わせた物として制作されています。その上で色や形に様々な違い持たせ、他の衣服とは違う特徴的な差を創っています。

そういった様々ある特徴的な差を持った衣服を、センスが良いとされる人達は個人的な感覚で選択し、自分が纏った時のイメージを纏め上げ具体化しています。センスが良いとされる人達は必ずその分野の知識が豊富で客観的な視点で自分を認知できています。

自分の体型、顔の特徴、性格的な特徴、トレンドや過去の潮流を学び、他人に与えるイメージを想像し選択をしているはずです。


流行の物を追いかけていても、それはトレンドに敏感であるという事であってファッションのセンスが良いという事ではありません。雑誌などの情報誌は今流行の物を伝える媒体であって、指標として成り立っているものでもありません。


新しいとされるものは誰かによって作られた価値観だからです。


科学や医学など、論理的で数値化できる分野での新しい事というのは、誰が見ても新しい物事として認知できると思います。ですがセンスという数値化できない感覚的な世界で、新しいと提唱された物は誰かが決めたあるいは団体が考えた価値観であって、とても曖昧で指標として成り立つものではありません。ほとんどが刷り込みによるイメージ戦略であって、商業的アプローチによる洗脳によって作られた価値観です。


センスとはその分野の知識に長け、どの部分をどのように利用すれば、自分が描いたイメージを具現化出来るのかをメタ認知できているのかという事ではないかと思っています。




才能は生まれ持った資質です。

骨格が大きくなりやすいとか、人種や血統によって違いが現れる他人には備わっていない特徴です。

ですので、資質(才能)を持たない人が資質を持った人と競ってもその人を超える事はありません。

しかし、才能と判断している内容をじっくり伺い紐解くと、それは環境などの後天的要因によるものも多くあり、才能という言葉が一人歩きしている事もよくあるという事も覚えておいてください。


そしてセンスとは誰もが備える事が可能な様々な力を統合した能力です。

メタ認知力を備えるには、理解しようとする物事の知識量を増やさなければメタ認知が出来ません。その上で、どのような使い方をすればどのような効果があるのかを客観的に判断し与えたいイメージを具現化します。





自分は絵の才能がないのかな・・・そう思い悩んでいる方は、仕事の進め方を見直してみてください。


デッサンであれば見る事が何よりも重要です。

描く事も大切ですが、見る(観る)力を養う事がとても大切です。


見方も段階で変化させてください。


まずは論理的に理解できるように、起点を定め上下左右の縦横比を測定し物の理解を深めてください。

論理的な理解度が上がり、デスケルやはかり棒を使わずとも目測で大凡の纏まりを掴めるように任意の客体を定めマッスでの理解を深めてください。

描く時は最初から詳細を描くのではなく、大凡この位置でこのサイズ量感でと、最初の仕事は大凡に進め、順に仕事の精度を高めるように詳細を追いかけてください。何故ならば、最初から精巧なデッサンなど誰も描けないからです。


そして何よりも大切な能力は努力です。

努力に勝る能力はないと僕は思っています。


雲をも掴むような無闇と進む努力ではなく、しっかり論理的に方向を定め進んでいけば、必ず目的が達成されると思います。




努力に勝る能力なんて、ないです。






デッサンを題材にしたArtTheoryのレッスンを公開しています。

よろしければご覧くださいませ。



・「目的」

・「主体・客体」

・「測定」

・「目測からはじめる」

・「相対での測定」など


・「分離思考と統合思考」

・「準備」

・「分割法」

・「縦横比」

・「投影技術」など

閲覧数:118回0件のコメント

最新記事

すべて表示
bottom of page